みなさんこんにちは![ポールのまきば]です!
気づけばもう8月の終わり。今年は子どもも大人も、いつもより短い夏休みを過ごした方が多かったかもしれませんね。しかしまだまだ暑い日が続いています!みなさんの体調が守られますように。
今回と次回は同じテーマでお送りします!
テーマは『裁く(さばく)』。
裁く、と聞くとみなさんは何を思いますか?悪い人が裁かれる、裁判のようなイメージを持つ人もいるでしょうか。
いえいえ、もっと身近な問題。私たちは気づかずに裁き裁かれている毎日を過ごしているかもしれません…。
「裁く(さばく)①~人にさばかれる~」
先日、車の中でラジオを聴いていたら、新型コロナに対して『過去について責めるのでなく、反省が必要ですね』というフレーズが聞こえてきました。
その時、次の聖書のことばが思い浮かびました。
『私は自分で自分のことを裁く(さばく)ことさえしていません。』
これは、新約聖書の半分以上を書いた、最も偉大な使徒パウロのことばです。
皆さんは、人の目や評価を気にしますか?
それとも、人の目や評価を気にしないように強い信念や固い意志を持とうしていますか?
こんな経験はありませんか?
相手のためを思い、親切にアドバイスしたつもりが、その人が怒ってしまったり、落ち込んでしまった経験。
逆に、アドバイスをしたくても、非難と受け取られるかもしれないので真実や忠告を言えなくてモヤモヤした経験。
誰でも良い人になりたいのです!
さらに望みは大きく、人々に愛され、尊敬され、高い評価を受け、つねに受け入れられ、気に入られる存在でいたいのです。
しかし、その代償は大きく、私たちは皆、人々の目や評価を気にしながら生きています。
私たちは、ある意味『裁かれながら生活している』と言っても過言ではないと思います。
裁かれないために、つまり人に非難されたり責められたりしないために、いつも注意しながら生活しているのです。
いったい『裁く(さばく)』とは、どういう意味でしょうか?
裁くとは、ある事を非難し、責め、その結果に判断を下すことです。
簡単に言うと、『裁く』とは『ダメだ』と判決し、刑を下すことです。
時代劇で大岡越前が、最後に、
『裁きを申しわたす。打首獄門(うちくびごくもん)。これにて一件落着!』とか言いますよね。
獄門っていう刑を知っていますか?
これは死刑の後の刑罰で、見せしめとして、既に死んでいるのに更に体を刀で切られ、首は人々に見せるため、三日間台の上に置かれます。カラスが来て目がなくなります!
もし、私たちが誰かを裁いているなら、それは私たちが『人を裁きながら生き、獄門とまではいかないとしても、何らかの刑を下している』ということです。
そして裁きを下すと、『刑』とは必ず、罰(痛み、タメージ)を伴います。
だから、誰でも人に裁かれたくありません。
パウロはまた、『仲間のクリスチャンたちから裁かれることは小さなことです』と言いました。
パウロは人に裁かれることが気にならなくなったのです。
それは、パウロが真理のことばを学んだからです。
パウロのその後の言葉に秘訣があります。
『私を裁く方は主イエス様だけです。』
つまり、私たちを裁く人は、ただお一人イエス様だけだ、ということです。
だから人の目や評価を気にする必要はないのです。
次回は、この聖書の奥儀(真理の教え)について、さらに無料で公開しちゃいます!
ライフチャペル 牧師、ポール・鈴木